お寺の本質、ヨガの本質
こんにちは!
南インドには「お寺で生まれて、お寺で死ぬべきではない」というコトワザ的な言葉があるそうです。
「お寺で生まれて、お寺で死ぬ」ってどういうこと?と思われるかもしれませんが…
「様式にとらわれず、本質を理解せよ」という意味なのだとか。
インドのお寺は、日本人が想像もつかないくらい、さまざまなルールで成り立っています。
参拝するだけでも、「裸足でなければならない」「清潔な衣服を身につける」など暗黙の了解がたくさんあります。
お寺で儀式を行うとなると、膨大なルールが存在するはずです。
もちろん、儀式や参拝のルールに精通するのが悪いわけではありませんが
冒頭のコトワザは「本質を理解せず表面だけ真似て、時間をすごすべきではない」という意味だと思います。
南インドの聖者であるアンマの本を読み返していたら、「お寺」についてハッとさせられる文章があったのでご紹介しつつ、ヨガに話を広げてみましょう。
お寺は、俗人のためにある?!
南インドの聖者アンマによると…
(お寺とは)ふだん俗事にどっぷりとつかっている者にさえ、つかのまでも神への想いに灯をつけてくれる場所です。
しかし、だからといって人生の最後の瞬間まで寺院の儀式に縛られたままであってはなりません。
もし、私たちがジャパや瞑想を毎日独自に行うことができるなら、たとえ寺院をまったく訪れることがなかったとしても、なんの問題もないのです。
また同様に、もし生涯のすべてを寺院通いに費やしたとしても、ハートの内に神をしっかり確立できないなら、それはなんの意味もないのです。
「アムリタジョーティ 永遠の光」より引用
さて、この文章を読んでギクリ…としないでしょうか?
わたしは俗事にどっぷりつかった日常をおくっているせいか…「たしかに!」と共感します。
お寺の静謐な空間に身をおくと、心がしずかになり、内側とよりつながりをもてるもの。
そして、お寺は俗事にどっぷりつかった人が本質に近づく助けになる一方、
ただ漫然と参拝をつづけるだけでは意味がないということですね。
形式だけで参拝をつづけるならば…
冒頭でご紹介したコトワザの「お寺で生まれて、お寺で死ぬ人」に該当するかもしれません。
大昔にお寺はなかったらしい
さらに、アンマによると、大昔はお寺というものがなかったそうです。
大昔は、寺院はありませんでした。あるのはグルと弟子の脈々たる系譜だけでした。
寺院での参拝は、現代のような心の弱くなった人々のためにあります。
例えば、盲目の子どもたちには、点字を使ってものを教えます。
「なぜそうするのか、なぜ他の子どもと同じように教えないのか」と疑問に思う人もいるでしょう。しかし、それはできないのです。
盲目の人には、特別に合った方法で教える必要があるのです。それと同じように、今の時代に生きる人々は、心を神と結びつけるために、寺院が必要なのです。
「アムリタジョーティ 永遠の光」より引用
わたしたちは、何か形がないと「祈る」ことができません。
お寺や神社などで「祈る対象」がないと、どう祈っていいかさえ、わからなくなります。
そんな弱った心をもつ現代人には、寺院という形が必要なのでしょう。
一方、大昔の人は寺院がなくても神とつながりをもてていたなんて、すごいです。
インドの伝統的な価値観では、現代は「カリユガ」という俗にまみれた時代区分にあたるので、「心が弱い」のは仕方ないともいえますが…
自然と調和する暮らしをしていた大昔の人とは、どうしても心のあり方がちがってきているのでしょうね。
ヨガで本質をみつめる
さて、今回はリアルな「お寺」についてお話ししましたが、
この話は「ヨガ」にもあてはまるように思います。
ヨガで「お寺」の役割をはたしているのは、マスタープラブジやマスターサティシュジのクラスでしょうか。
師から指導を受け、本質を「ひとかけら」ほど分けていただくのが「クラス」。
師の教えは、ヨガの動きやポーズなど表層的なことにとどまりません。
生徒であるわたしたちは、ヨガの本質を理解し、日常に組み入れていく必要があります。
つまり、ヨガの動きを毎日おこない、誰よりもヨガのポーズに習熟したとしても…
本質を見る「心」がともなっていなければ、「お寺で生まれて、お寺で死ぬ人」になりかねません。
なにより、日常の俗事に心をうばわれすぎず、ハートを開く時間をもうけたいですね。