瞑想で「無」にならなくていい理由

瞑想

こんにちは!
最近では瞑想が「マインドフルネス」と名前を変え、広く実践されるようになっています。

脳のはたらきを高め、心をおだやかにし、体の機能を回復するなど効果がさかんに研究されている分野ですね。

しかし、「瞑想しても集中できない」「雑念にまみれて、効果がよくわからない」とお感じの方もいらっしゃるかもしれません。

そこで今日は

  • 瞑想で「無」にならなくていい理由
  • 思考に「気づく」をくりかえせばいい
  • 思考からはなれる仕組み
  • 思考に「気づく」と何がいいのか?

についてお話しします。

わたし自身、若い頃に座禅に通っていた習慣もふくめると、20年くらい瞑想に親しんできました。
決して専門家とはいえませんが、経験をとおして学んだことをシェアしたいと思います。

瞑想で「無」にならなくていい理由

瞑想

「マインドフルネス」のような一般的な人向けの瞑想法に着目すると、多くは瞑想中に1点に集中したり「無になる」必要はないといわれています。

なぜなら、わたしたちの「心」は次から次へと考えがうかぶようにできているからです。
目をつぶって座っていたら、次々と考え事をするのは自然なことといえます。

だから、「雑念だらけの自分はダメだ」と罪悪感をいだく必要はまったくありません。
むしろ次々と浮かびあがる雑念とどうつきあうかが「瞑想」といえるでしょう。

思考に「気づく」をくりかえせばいい

瞑想

瞑想をはじめると雑念がさまざま浮かびあがりますが、ただそれに「気づけばいい」といわれています。

たとえば、「あ、夕ご飯のことを考えはじめたな」という感じです。
思考は「見られるのを嫌う」ので、意識をむけると、す~っとおさまっていくことが多いです。

しかし、まもなく別の思考が思い浮かぶでしょう。
同様に「ああ、次は仕事の段取りを考えはじめたな」と意識をむければ、その思考もおさまっていきます。

大切なポイントは、出てきた思考をジャッジしないこと。

  • 「ご飯のことばっかり考えるなんて、いやしい…」
  • 「この件は考えたくなかったのに、最悪だ…」

など、内容を吟味しても意味がありません。
たとえ怒り、悲しみ、にくしみといったネガティブな思考がわいてきても…

  • 「怒りを感じているんだなあ」
  • 「悲しいんだなあ」
  • 「にくいと感じてるなあ」

と、ただただ実況中継のように客観的に「気づく」と思考ははなれていきます。

思考からはなれる仕組み

わたしが以前お世話になっていた禅寺の座禅は、呼吸の数を心の中でカウントしていました。
インドの瞑想法では、マントラ(真言)を心の中で唱えるものもあります。

数をカウントしたりマントラをとなえたりするのは、思考を元の位置に戻すための「目印」のような役割です。

多くの瞑想法には、このように思考からはなれてニュートラルな位置に戻ってくる仕組みがあり、よく船の「いかり」にたとえられたりします。

「嵐」のような雑念にまみれても、目印の「いかり」に意識を向ければ、安心しておだやかな海に戻ってこれるというわけです。

思考に「気づく」と何がいいのか?

ところで、思考に「気づく」と何がいいのでしょうか。
逆に、思考に没入して考え事を続けると何が悪いのでしょうか。

わたし自身は、思考にはまりこむのは自分の「思い癖」がつくりだす妄想の物語に没入することであり、思考に気づくことで現実に戻り「よりよい判断ができるようになる」と感じています。

たとえば、思考を放置すると…

  • 「人に冷たくされた…」
  • 「わたしのことが嫌いなのか…」
  • 「なぜ嫌われるのか?」
  • 「わたしがダメ人間だからに違いない」

など、「自分がダメだから冷たくされた」というストーリーを思いえがいて「おちこむ」行動を選択してしまうかもしれません。

しかし、「冷たい」と感じた人はただ単に機嫌が悪かっただけかもしれず、おちこむ必要などなかった可能性もあります。

つまり考え事とは自分がつくり出す妄想に近いのです。

瞑想で「思考に気づく」練習をつづけると、日常生活でも思考に気づきやすくなるでしょう。

  • 「あ、不安を感じてるなあ」
  • 「あ、今怒りがわいてきた…」

というように、自分の思考に気づきやすくなります。
自分の気持ちをうけとめ自動的な「思考」のループを断ち切れると、客観的な判断ができるようになり、行動が変わっていくでしょう。

日常がより幸福に、より自由になるツールとして瞑想をご活用いただければ幸いです。

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