ヨガは瞑想のためにある?!

ヨガと瞑想

こんにちは!
先週末の「マハー・シヴァラートリー」は楽しめたでしょうか?

インドには、「マハー・シヴァラートリー」など特別な機会以外でも、お祈りや瞑想に日々の大半を費やす人たちがいます。

世俗の生活に追われるわたしたちの代わりに、世界の平和や幸せを祈ってくれているわけですが…
そんなインドの高僧たちも、ご高齢になってくると「膝が痛い」など体の悩みをかかえると聞きます。

年齢を重ねれば「関節」もかたくなりがちですし、
お祈りや瞑想をするときに、パドマーサナ(結跏趺坐)などの「座る」姿勢をつづけると、膝に負担がかかっても不思議ではありません。

高僧でさえ座りつづけると足腰に負担がくるわけですから…
わたしたち一般の人が1日中座り続けたら、体があちこち痛くなることでしょう。

つまり、わたしたちは「快適に座る」ことがむずかしいのです。

「快適に座る」ために「体を動かすヨガ」があるとしたら、どう思われるでしょうか?
今日はヨガと瞑想のつながりを考えてみましょう。

ヨガは瞑想のためにある?!

ヨガ

健康や美容のためにヨガをする人は世界中にたくさんいますが…
インドで生まれたオリジナルのヨガの目的は、健康や美容ではなかったといわれます。

ヨガの目的は「真理を悟る」ことにあり、輪廻転生という永遠につづく生死からの「解脱」…なのです。
インドっぽい考え方だと思われるでしょうか?

いや、そんなの興味ないし…とドン引きされた方も、ちょっと話を聞いてください。

古代の聖仙たちは、「解脱」という壮大な目的を邪魔するものが、絶えず考え事をつづける「心」だと気づきました。

そんなモンキーマインドともいえる「心」にアプローチするテクニックとして「瞑想」が生み出されたわけですが…
わたしたちは瞑想しようにも快適に座っていられません。

長時間座ろうとすると腰や膝が痛くなったり、体の一部がこわばったりして、瞑想以前の問題がでてきます。

つまり、瞑想をおこなうためには、先に体を健康な状態にして快適に「座れる」ようにする必要があるのです。
そのために、いわゆる「体をつかうヨガ」のポーズが生まれたと考えられています。

自然と調和した暮らしのなかで、体の不調が少なかったと思われる古代の人たちは
もしかすると、ヨガのポーズを必要としなかったかもしれませんね。

幸せになるには、「体」から

幸せになるには体から

ヨガの本来の目的が「解脱」であることはさておき…
わたしたちは皆、幸せでありたいと願うことでしょう。

幸せになるためには…
心よりも、体にアプローチした方が早いのではないかと感じます。

なぜなら、心と体を比較すると、心の方が精妙で扱いづらいからです。
体は見てさわれる上に自由に曲げ伸ばしなどもできるので、心よりも扱いが楽ですね。

より扱いやすい「体」から先にアプローチし、快適な状態になったら、
より精妙な「心」にアプローチする…という順番は、わたしたちが幸せにすごす上で応用できる原理ではないでしょうか。

たとえば、幸せであるために「心を落ちつけたい…」「イライラしたくない!」と思っても、
心を直接コントロールするのはむずかしいです。

一方、体からのアプローチは遠回りに思えるかもしれませんが、トータルで考えると近道かもしれません。
体が変わることで心が変わったり、あるいは心をコントロールしやすくなったりするからです。

というわけで、体にアプローチする「ヨガ」は幸せへの近道だと思う…という結論でしめくくらせていただきます。

ヨガをしましょう、そして、幸せな人生を楽しみましょう。

Follow me!