日本の食卓は不浄?!
こんにちは!
先日、アーユルヴェーダの古典を学ぶクラスに参加したら、おもしろい話をうかがいました。
インド人のアーユルヴェーダの先生と日本人の生徒さんたちが食事しているときに、
生徒の1人が先生のご飯について「それ、おいしそうですね!」とコメントしたそうです。
すると、先生は「あげますよ」といって、すべて生徒さんに与えたのだとか。
インド人のアーユルヴェーダの先生、やさしい…!という話ではありません。
「おいしそう」という誰かの欲望のエネルギーを受けたご飯を食べると自分の健康を害するから、
先生は「欲望の持ち主」である生徒に与えただけだそうです。
アハハ、生徒のためを思ってではなく、
自分の健康のためだったのですね。
ところで、「欲望」といったエネルギーを受けるだけで、
食べ物はダメになるのでしょうか?
今日はインドと日本でことなる浄・不浄のコンセプトを考えてみましょう。
インドと日本で「清浄」はどう違う?
日本は清潔な国です。
食事面でも、衛生的に配慮していることはたくさんあるでしょう。
そんなわたしたち日本人は、インドの食事について「不衛生」というイメージをもつ人も多いのではないでしょうか。
つまり、自分たちの食事は「衛生」で、インドの食事は「不衛生」だと見下しているのです。
一方、日本の食卓を見て、インド人が「なんて、不浄な…」と眉をひそめているとしたら、どう思われるでしょうか?
実は、日本のごくふつうの食事は、インドの伝統的な価値観では「不浄」そのものなのです。
「よく、そんなの食べれるね~」というレベルでしょうか。
すなわち、日本人が衛生的な食事を「清浄」だと安心する一方で、
インド人はエネルギー的、あるいは宗教的な「清浄さ」を食事にもとめるといえます。
日本の食卓が「不浄」ってどういうこと?
インドの伝統的な価値観では、食事面でも「エネルギー」を重視するように思います。
たとえば、家庭の食卓で、お母さんが調理中に料理の味見をすると…
もうその料理は「不浄」だと考えるのです。
お母さんが味見をした、つまり、お母さんのエネルギーが入った時点で
料理は丸ごと「お母さんのご飯」になってしまうと考えます。
お母さんが味見した後の料理を他の家族が食べると…
お母さんの残り物(=不浄)を食べたことになるそうです。
「味見」といっても、直に口をつけるわけではなく、
別の小皿にとって味見してもアウト!なのだとか。
あるいは、お母さんが調理中に、子どもが「いいにおいがする~」といって
料理のにおいを嗅ぐのもNGです。
においを嗅ぐ、つまり、子どものエネルギーが入ることにより
料理すべてが、においを嗅いだ子の食事になってしまいます。
というわけで、調理中に味見はおろか、においを嗅ぐのもNGですし、
日本のように大皿や鍋をシェアして食べる…のも「不浄」といえますね。
同様に、冒頭でご紹介した、生徒が先生の食事に「おいしそう」と欲望をむけるケースも、
欲望をむけた時点で食事は生徒のものになっているので…
先生がそれを食べると、不浄さをとりこむことになります。
ヨガの師が食事に同席しない理由
ヨガの師であるプラブジは、基本的にわたしたち生徒と食事をしません。
主な理由は、生徒にごちそうするときに、肉食の人がふくまれると
自分の「悪いカルマ」になるからだとおっしゃっていました。
前提として、プラブジは生徒にはごちそうしたいとお考えです。
そして、自分と一緒に食事するからといって、肉食の人を菜食に強要するご意志はありません。
しかし、プラブジが同席する食事の場で生徒が肉食をすると、
その費用を払うプラブジにとって「悪いカルマ」になるというお話でした。
間接的にでも、肉食をサポートしたということになるからでしょう。
というわけで、「エネルギー」や「カルマ」などの観点からみると、
インドより日本の食卓の方が「不浄」かもしれません。
とはいえ、「不衛生」や「不浄」の考え方は文化によるので、比較する意味はないのでしょうね。
「不衛生」に思えるかもしれないインドの食卓が、
実はめちゃくちゃ「清浄さ」に気をつかわれているという理解につながれば幸いです。