ヨガのグルからの祝福
こんにちは!
明日はグル(師)に感謝する「グルプールニマ」とよばれる吉日です。
こちらの記事では、主に霊性のグル(師)についてお話ししましたが、
ヨガにも「グル」がいます。
ヨガのグルとは、ヨガの先生のこと。
プラブヨガをやっている人であれば、マスター・プラブジとマスター・サティシュジや、お二人の前のグルたちが「ヨガのグル」になるでしょう。
マスターたちのクラスに参加された方は、にこやかな笑顔のお二人に親しみやすい印象をもたれたことと思います。
「いつでも質問できる」ように、プラブジとLINE交換された方も多いはず。
しかし、インドではヨガのグルと弟子(生徒)の関係は、日本とはちょっとちがいます。
「親しみやすい」「いつでも質問していい」とは真逆の、「厳しい」「質問できない」関係かもしれません。
今日はヨガのグルと弟子の関係から、グルの祝福について考えてみましょう。
インドのヨガのグルは厳しい?!
プラブヨガの師であるマスター・プラブジとマスター・サティシュジのインタビュー記事によると、
お二人の修行時代は、グル(師)の厳しい指導のもと「質問」さえできなかったと語られています。
インドの伝統的なヨガの師弟関係では、「弟子は言われたことをやる」スタイルのようです。
グルの言うことに絶対的にしたがうのが弟子。
質問はもちろんのこと、口ごたえなどゆるされません。
プラブジがインタビューの中でおっしゃっているように、「躾」としての側面もあるのかもしれませんね。
師弟関係が厳しい理由
弟子はグル(師)に質問もできない…
日本人の感覚だと、厳しい「主従関係」のようで違和感を感じるかもしれません。
南インドの聖者アンマが、グルと弟子の関係をわかりやすく解説されていたので引用しましょう。
弟子はサンスクリット語でシシャと呼びます。
シシャという言葉の意味は、教わるに適した者、訓練するに適した者という意味です。シシャは自分自身が捧げ物となる者のことです。
弟子は、何でもグルのすることは弟子の向上に役に立つためだということを完全に意識していなければなりません。
なかには、グルへのそのような盲目的服従は、奴隷の一種ではないかと疑問に思う人もいるかもしれません。真実は、弟子はすでに、自分自身の内に潜伏している習慣やエゴの奴隷となっているのです。
「アンマのグル・プールニマのお話(2018年7月27日)」より引用
グルが行うのは、その奴隷の束縛から弟子を救い出すことなのです。
つまり、誰でも弟子になれるというわけではなく「教わるに適した」資質が求められるほか、
グルは弟子の内側から導いていくために指示しているといえます。
グルの厳しい指導の意図は弟子の想像をこえていて、理解がむずかしいかもしれないけれど、
すべては自分(弟子)のためになるという根本的な信頼から師弟関係がむすばれているのでしょうね。
インタビューで、マスター・プラブジは、ごくかぎられた生徒だけが「ディクシャを授かった」と語られていました。
ディクシャとは、グルから弟子としてイニシエーションの儀式を受けることを意味します。
弟子として準備のできた人、つまり教わるに適した資質をもつ人がグルと師弟関係をむすび、
グルの指導のもと、ヨガの叡智を受けつぎながら、人として成長していく仕組みといえるのではないでしょうか。
ヨガのグルは祝福する
インドの伝統的なヨガは強固な師弟関係のもと、少数の弟子にうけつがれてきたわけですが、
このやり方だと、なかなか一般の人はヨガの恩恵を受けられません。
プラブジたちは、ヨガの叡智がより多くの人に届くように、門戸を広げてくださっています。
たとえば、プラブヨガのクラスは受講条件がほとんどありません。
基本的にはどなたでもご参加いただけます。
必ずしも強固な師弟関係のもとでなければ、ヨガの恩恵をえられないわけではないからです。
実際、マスター・プラブジは「一度でもクラスに参加すれば、グルからの祝福を受けとれる」とおっしゃいます。
一度でもクラスに参加すれば、マスター・プラブジやマスター・サティシュジとご縁がつながるだけでなく、お二人を指導されたグルたちからの祝福も受けとれるのです。
つまり、「クラスにあまり参加できてない…」としても気に病む必要はないといえます。
もちろん「少数の選ばれた弟子」と「多くの一般の生徒」で受けとるものが同じだというつもりはありませんが、誰もがグルから受けとれるのが「祝福」。
祝福とは、ヨガを通じてえられる健やかな体と心、そして幸せな人生のこと。
グルたちに感謝しつつ、ヨガを楽しんでいきましょう。