本で学ぶと危険な知識
こんにちは!
昨日は、インドの聖典「バガヴァッドギーター」についてお話ししました。
「バガヴァッドギーター」をバイブル的に位置づけて、読み返すインド人も多いと聞きます。
お気に入りの節を読み返したり、声に出してチャンティングするのは楽しいもの。
一方、本を読んで「バガヴァッドギーター」を学ぶのはおすすめしません。
むしろ誤解や混乱をまねく危険性があるので、訳本は読まない方がいい…とさえ思います。
今日は「本で学ぶと危険な知識」について「バガヴァッドギーター」を例にお話ししつつ、最後はヨガの話でしめくくりたいと思います。
本で学べない理由
日本でも「バガヴァッドギーター」の訳本がたくさん出版されていますが、本で学ぶのはおすすめしません。
人間の幸せに関する知識である「聖典」は、グル(先生)に質問をぶつけて、対話をとおして理解を深められる知識だからです。
「なぜ本で学べないのか?」を分解すると…
- 訳が適切でない
- 解釈の余地が大きい
2点が大きいと感じます。
それぞれ詳しく見てみましょう。
理由1.訳が適切でない
適切に訳すためには、言語を理解しているだけでは不十分です。
「バガヴァッドギーター」の原文はサンスクリット語ですが、
文法的に正しく訳せても、訳者が聖典の「内容」を深く理解できていなければ訳もとんちんかんになります。
なぜならサンスクリット語の言葉にはたくさんの意味があり、解釈の仕方で意味が変わってしまう可能性があるからです。
さらに、言語だけでなく内容を理解していても、読み手に伝わるわかりやすい言葉で表現するのは別のスキルだと思います。
つまり…
- 言語に対する理解
- 内容に対する理解
- 伝え方の技術
がそろわなければなりません。
聖典を「訳す」のは、とても難易度が高いといえるでしょう。
適切でない訳は読者に混乱や誤解を与えます。
理由2.解釈の余地が大きい
仮に完璧に訳された文章であっても、読む人によって疑問点や解釈がことなる可能性があります。
なぜなら、聖典は「人間の幸せ」をあつかう抽象的なテーマだからです。
つまり、どれだけ完璧な文章でも人によって理解がことなる可能性が高いといえます。
たとえば、「バガヴァッドギーター」でクリシュナ神が主人公アルジュナに「戦え!」と説くのを単純に解釈して、「ギーターは戦争を容認する危険な思想だ」と主張する人がいると聞きます。
伝統的な教えの文脈では、そんな話ではないのですが…
本を読むだけだと誤解してしまう可能性があるので要注意です。
対話をとおして学ぶ必要性
個々人により疑問点やとらえ方がことなるからこそ、
- 「この意味がわからない」
- 「こういう理解でいいのか?」
という疑問をグル(先生)にぶつけて、対話をとおして理解を深めていく必要があります。
さらに、「人の幸せに関する知識」だから、机上の空論になっては意味がありません。
- 「家庭の問題を、どう考えたらいいのか?」
- 「仕事でこんなときは、どう対応したらいいのか?」
など、ギーターの知識を自身の状況におとしこんで理解する必要があります。
先生が重要
ここまで読んでいただくと、グル(先生)がとても重要だと気づかれるでしょう。
「先生」の理解が不十分だったり、そもそも解釈を誤っていたりしたらどうしようもありません。
インドの伝統的な価値観のもとで、グル(先生)から学んでこられた先生に教えてもらうのがおすすめです。
「先生のいない先生」…はもっとも危険なので、さけた方がいいでしょう。
本で学んだだけの知識や自己流の解釈でギーターのクラスを開催されている方もいるので、注意が必要です。
ヨガも同じ
今日は主に「バガヴァッドギーター」の話をしましたが、「本だけで理解できない」「先生が重要」なのはヨガも同じといえるでしょう。
つまり、本を読んで理解できない知識とは…
「個人的な状況におとしこむ必要のある知識」だと思います。
- 聖典の知識から「自分の幸せ」に
- ヨガの知識から「自分の健康」に
おとしこむためには、「わたしの場合はどうしたらいいのか?」を考えなければなりません。
そういう個別具体的な内容は、本や動画といった「一方的な知識」では習得しづらいように思います。
聖典の勉強もヨガもとても個人的なもの。
先生のもとで「わたしの幸せ」「わたしの健康」をみつけていきたいですね。