瞑想で「思いの癖」を減らす
こんにちは!先日、タイのお寺で出家された日本人僧侶のプラユキ・ナラテボー師にオンラインで面談の機会をいただきました。
「集中系」と「気づき・洞察系」の瞑想法
プラユキ師の瞑想法を知ったのは、4年前くらい。瞑想会や面談などの機会を通じて、ゆるく瞑想を続けてきました。
仏教の瞑想には、大きく分けて、「集中系」と「気づき・洞察系」があります。
目を閉じて、何かにぐーっと集中したり、無の境地を目指していくのが「集中系」。「気づき・洞察系」は、自分のありのままの心の状態に気づいていく、というプロセスを経る瞑想法です。
プラユキ師の瞑想は後者の「気づき・洞察系」。その中で私が実践しているのは、目を開けた状態で、手を使って行う「手動瞑想」というもので、手の動きに気づき、さらに心の状態に気づいていきます。
個人的な感想ですが、プラユキ師の瞑想を知る前に取り組んでいた「集中系」の瞑想は、時間の感覚や身体の感覚などがなくなり、「なにこれ、天国?!」みたいな恍惚とした感覚を味わえて面白かったりするのですが、それはその場の「体験」でしかなく、その時間が終われば、いつもの日常に戻るだけ、という感覚が強かったです。
一方、「気づき・洞察系」の瞑想は、いい意味で地味(笑)。瞑想中に恍惚とした体験が得られるということはないですが、日常生活の中で、「あ、今こういう気持ちになってる」ということに気づける機会が増えて、その後の選択を変えることで、人生が少しずつ変わっていっているような気がしています。
瞑想で、心の癖が出てくる
そんなわけで、「気づき・洞察系」の瞑想法である「手動瞑想」を続けているのですが、続けてくる中で、だんだんと自分の心の癖が強く出てきて、いつの間にか、効果が薄れてきている…ということに今回気づかされました。
私の心の癖は、「ネガティブな感情をありのままに見ることが怖くて、避けてしまう」ということ。
「どうでもいいことを気にする自分」「小さいことで怒りがおさまらない自分」「恥ずかしい自分」…そういう、「見たくない自分」を見ると、心がザワザワします。
自分の「こうありたい」理想の自分像と現実の乖離が深まれば深まるほど、「なかったこと」にしたくなって、見ないようにしてしまいます。
多分、無意識にそうやって見ないことで、自分の心が傷つかないようにしているのだと思います。
一方、「前向きで、元気で、ポジティブな自分」を見ていると、自分が「こうありたい」像に近くて安心するので、そっちばかりを見ようとします。
でも、それじゃあ意味がない!
ネガティブな気持ちもありのままを事実ベースで受けとめて、受け入れて、気づいていく。それを繰り返すことで、自分で自分をジャッジして狭い価値観に閉じ込めている思いの癖を軽減していくことができるのだと思います。
最近は、手の動きに全然気づけず、気づいたら10分経っていた…!ということもしばしば。
「間に合ってないよ!」という師の言葉が頭の中でこだまします。
はい、これじゃあ、せっかくの瞑想法もただの手の運動…!
瞑想の時間のはずが、ただの考え事の時間になってしまっていました。
瞑想は心の筋トレ
ノートを見返すと、1年前の面談でも、似たようなことを言われていました。
「繊細に観察する力をもう少しつけていけるといいね」と。
ネガティブな感情がわいてきたら、それは、心の筋トレができるチャンス!
おおざっぱに捉えて、自分の心をごまかすのではなく、その時出てきた気分や思考を受けとめて、気づいていけばいいのです。
「なかったこと」にしたり、「大したことない」とごまかしたりせず、自分の心の声を丁寧にくみ取っていきたいですね。
心の安定は瞑想で作れる
思いの癖は瞑想でなくしていける
プラユキ師のお言葉。
きっぱり断言されるところが頼もしいです。
プラユキ師ご自身も、手動瞑想の実践を長く続けてこられていて、効果を実感されているとのこと。
苦手なことを少しずつ克服できるように、さらに、それが日常生活に生かせるように、意識を向けながら取り組んでいきたいと思います。
そして、いつの間にか効果がなくなっていた…ということにならないように、定期的にチェックの機会を取り入れたいです。
日常に行かせる瞑想、一緒に実践してみませんか?!
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