インドの「寄付」事情

インドの寄付事情

こんにちは!
最近は、特定の宗教団体と「寄付」の問題が話題になっているようです。

人の悩みにつけこみ、限度をこえて寄付させるのは問題ですが…
関係のない「宗教」や「寄付」にたいするイメージも悪くなっていくようで残念に思っています。

人の心をコントロールし、あたかも自分の意思でおこなっているかのように寄付させる手法は、
時代や場所をとわずおこりえる極端な例だと感じます。

そうした極端な話はさておき…
日本では「寄付」があまり一般的でない上に、ネガティブなイメージをもつ方も多いでしょうか。

  • 寄付は、お金持ちがやること
  • 自分には、寄付できる余裕なんてない
  • 有名人が寄付を公表すると、たたかれる

など…「寄付から遠ざかる」理由が山のようにあります。
有名人が寄付しただけで炎上するなんて…おそろしい話ですよね。

つまり、日本人は「寄付」とのつきあい方が下手だと思うのです。
文化的に「寄付に慣れていない」といった方が正しいでしょうか。

一方で、「寄付」が上手な国として思いうかぶのが「インド」です。
インドでは、老いも若きも男も女も…あたり前のように寄付します。

今日はそんなインドの「寄付」事情について、わたしの経験をもとにお話ししましょう。

インド人は「寄付」が上手

寄付

インドでは、「寄付」が一般的です。

少なくとも、社会的に「寄付はいいこと」というコンセンサスがとれているので、
有名人が寄付をして「偽善」などと、たたかれることはありません。

寄付の金額が少ないからといって、卑下する人もいないでしょう。
経済状況がどうであれ、自分のできる範囲で「寄付」をするのです。

実際、「寄付」だけでまかなわれている施設がたくさんあります。
病院や学校・お寺・シェルター・職業訓練の施設などさまざまです。

こうした施設の職員さんは、ふつうに雇われているケースもある一方、
施設の活動に共感するボランティアが労働力を提供していることもあると聞きます。

「お金」だけでなく「労働」を提供するのも1つの寄付の形ですね。

寄付運営の施設を利用すると…?

アシュラム

寄付でまかなわれる施設は、宗教団体やNPOなどが運営していて、基本的に誰でも利用できます。
特定の宗教の信者でなくてもいいし、その団体に寄付したことがなくてもOKです。

利用したからといって、「教えに従え」「入信しろ」などと強要されることはありません。

たとえばお寺に宿泊して、お部屋とご飯を用意してもらいます。
お寺が提供するヨガや瞑想のクラスに参加してもいいし、参加しなくてもOK。

施設を去るときに、滞在費を「寄付」する仕組みが多いでしょうか。

金額は自分で決められる(いくらでもいい)ケースもありますし、
1泊あたり最低限の金額が設定されていて、それ以上ならOKというケースもありました。

寄付の額が多いから優遇されるとか、少ないから邪険にされるということはありません。

「寄付する側」が感謝する

感謝

わたしがインドで驚いたことは、「寄付しても特に感謝されない」ことです。
なんなら、寄付された側の「事務手続き、めんどくさいな~」という空気すら感じたりします。

どちらかというと、寄付する側が感謝する立場といえるでしょうか。
つまり、「寄付をする機会をあたえてもらって、ありがとう」なのです。

とはいえ、病院や学校など必要なインフラをサポートできると思うと、できるかぎり寄付したいと感じるもの。
「誰かの役にたてて、うれしい」という純粋な喜びを与えてもらっているのです。

「寄付」の深い意味

深い意味

わたしの敬愛する南インドの聖者は、「寄付」について以下のような趣旨の話をされていました。

マインドはお金や富に執着する。

それは自然なこと。

「寄付をする」ということは、「マインドをささげる」という意味になる。

そして、ささげたものを受けとれる。

わたしたちの「心」は形がないので、ささげるのがむずかしいですが、
形のある「お金」なら寄付という形でささげられます。

「寄付」は、お金という形のあるものをとおして、自分の「心」をささげる行為といえるでしょうか。
そして、たしかに受けとっているものがあります。

つまり、「寄付」は単なる慈善活動だけでない、深い意味をもつのがインドの文化。
寄付に抵抗を感じる方は、労働力や知識など「お金」以外のものを施すのもいいでしょう。

寄付をとおして、「与えることで、与えられている」ことに気づけるかもしれません。

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