インド人から学ぶ「自己肯定感」
こんにちは!
参加された方はご存じのとおり…「プラブヨガ」の1DAY東京クラスは、予定していたクラススケジュールどおりに進行しません。
クラスに参加されて、前後の予定がくるってしまったみなさまには申し訳なかったです。
今日は、クラスが「インド時間」になっている件から、「なぜそうなるのか」と彼らの「文化背景から学べること」を考えたいと思います。
日本社会で「時間を守る」のはとても大切だということは、ヨガの師であるプラブジはよく理解されています。
彼もなるべく時間どおりになるように努力されています。
でも、遅れる…
それは、なぜなのでしょうか?
- 「適当にやってる」
- 「いい加減に考えている」
ということはありません。
プラブジに限らず、インド人と接していて時間が遅れることは日常的。
でも、彼らは彼らなりに理由があって「遅れる」し、遅れてでも得られるベネフィットを優先しようとしているのです。
だからといって、遅れていいわけではないですが、彼らにはあまり通用しないのが現実。
コロナ前は6年間ほど継続的にインドに通い続けたわたしが、たくさんのインド人と接する中で感じる傾向は、
- 「自己肯定感」がめちゃくちゃ強い
- だから、他人も自分もゆるせる
- 変化に柔軟に対応できる
の3点。
わたしたちは、インド人やインド社会から学べることがたくさんあるように思います。
今日は、プラブヨガの東京クラスが遅れがちであることと関連して、上記3点の特徴を掘り下げて考えていきたいと思います。
「自己肯定感を上げたい」方や「他人や自分にやさしくなりたい」方、「変化が苦手」方に特におすすめの記事です。
なぜ「インド時間」になるのか?
なぜクラスが「インド時間」になるか、改めて考えました。
10月と11月のプラブヨガの東京クラスは、会場がとても広かったです。
「皆に声がしっかり届くように」マイクをセットしたかったのですが、うまく接続できず、開始時間が遅れました。
10月は特に1コマ目以降も、大幅に遅れましたが、
「定刻どおりに終わると、(そこまでの動きだけでは)エネルギーが止まってしまう。
エネルギーを循環させるために、もう少し動く必要がある」という理由でした。
後者はともかく、前者のマイクのセッティング問題は「もっと早く来て準備すればいいのでは?」と日本人的には感じるのではないでしょうか。
先生にそこまでつっこんで質問はしていませんが、おそらく早く来れなかったのは、朝まで「パワーフード」の準備をされていたのだと思われます。
つまり、彼なりにベストを尽くされた結果で遅れているということ。
遅れることを肯定するわけではないですが…理由があって遅れているし、皆にとってよりベストな選択をしている…という背景があるようです。
「今ここ」に集中するインド人
クラスが大幅に遅れると、参加者のみなさまのテンションも下がります。
「一体いつはじまるわけ…?」という空気が漂います。
でも、プラブジは気にされる様子がありません。
「マイクの接続」に全神経を集中されていました。
誰かが「先生、皆待ってるので、お願いします」と促しても、聞く耳を持たれなかったです。
ようやくクラスがはじまった後は、
「マイクの接続がうまくいかなかったから遅れました。さあ、今からはじめましょう!」
と、実に朗らかな笑顔でおっしゃっていました。
先生は冷静そのもの。
自分だったら…と考えると、
誰かを待たせている時点で「いたたまれない気持ち」になるだろうし、遅れたことで「動揺」してクラスに集中できないかもしれません。
今回、東京クラスを例に出しましたが、インド人は全体的にそんな傾向があるように思います。
自分が誰かに迷惑をかけたり、批判を受けてもあまり気にしているように見えません。
「そうなんだ」と受けとめつつ、「じゃあどうしよっか?」とその先を考えて、冷静に対応していく力が強いように感じます。
一瞬一瞬の「今ここ」に集中してベストを尽くす…まさに「ヨガ」の教えそのものを体現しているといえるかもしれません。
見習いたい!インド人の3つの力
ここからは、背景にあるインド人の美点として、
- 自己肯定感が強い
- 他人も自分もゆるせる
- 変化に柔軟に対応できる
についてお話ししたいと思います。
インド人は総じて「自己肯定感」が高いです。
彼らと接していると、「自分はとるにたらない人間だ」「自分はつまらない人間だ」なんて考える人はいないのではないか…とさえ感じます。
たとえ、どんな人でも「自分には価値がある」という根拠のない自信をもちあわせているのです。
よく考えると、そのとおりですよね。
どんな人も「生きているだけで価値がある」はず。
誰でも、まわりの誰かを幸せにできる力をもっているからです。
そして「自己肯定感が高い」からこそ、他者から何か言われても、気に病まない。
同時に、他者の失敗や過ちに対しても「ゆるす」ことが自然とできるように思います。
インド人と接すると、約束を守ってくれなくて被害を受けることもありますが、こちらが失敗したり約束を守れなかったりしても、あまり怒られないです。
「そんなに謝らなくて、大丈夫だよ~」とおおらかに受けとめてくれます。
失敗や過ちを批判されないと、楽な気持ちになれますね。
さらに、インドでは「うまくいかないこと」や「想定外のこと」が頻発します。
「お風呂であたたかいお湯が出る」「電車が定刻どおりに発車する」
など日本であたり前のことも、実現しない方が多いでしょう。
インド人はこうした「うまくいかないこと」に柔軟に対応します。
「うまくいかない状況」の中でどうできるか、ベストな選択肢はなにかを冷静に考えて選択していっているように見えます。
だから「変更」がものすごく多くて、わたしたち日本人は振りまわされたりしますが…
常に状況が変化しているから、その先の選択もどんどん変わっていく方が実は自然なのかもしれません。
違いは教育から?
日本は謙虚であることが尊ばれる文化。
「謙虚さ」がいきすぎて「自己卑下」「自己否定」となり、苦しくなっている人もいらっしゃるのではないでしょうか。
インド人とのマインドの差は何なのか考えると、「教育」の違いが大きいように思います。
インドの家庭教育は基本的に「褒める」のだそう。
そして「自分も人に迷惑をかけるのだから、人の迷惑も受け入れよう」という文化であり、教育方針。
もちろん「褒める」と「甘やかす」は別物。
子どもを甘やかしてスポイルするのではなく、よいところを認めて、肯定することを大切にしているそうです。
幼いころから自分を肯定されて育つと、「自分には価値がある」という自信になり、自分も他人も「ゆるす」力を養えるように思います。
「何がおきても、自分は大丈夫」という自信があると、変化にも柔軟に対応できるようになることでしょう。
つまり、ベースとなる力「自己肯定感」を幼い頃から育まれてきていることが、わたしたち日本人との違いなのかもしれません。
すでに大人のわたしたちができることは?
「自己肯定感」が幼少からの教育によるものだとしたら、すでに大人であるわたしたちはもう遅いのでしょうか?
わたしは、そうではないと思います。
なぜなら、わたしたちの脳には可塑性(変化する力)があるからです。
日本社会で同じ文化背景をもつ人たちだけと接していると、共通の文化である「謙虚さ」が強化される方向にしか進みません。
でも、別の文化をもつ人と接すると、「そういうのもアリなんだ!」と学ぶことができます。
インド人にかぎらず、こういった「自分にはない要素」を持ち合わせている人と接することで、新しい「価値観」をとりいれられると思うのです。
「うわ~。この人、こんなにやらかしてるのに、動揺してない…」という例を見ると、
「自分も、もう少し図太くていいか…」と思えるかもしれません。
いろんな文化の人と接することで、相手のよいところをとりいれていきたいですね。