人生はすべて「借り物」
こんにちは!
禅には「本来無一物(ほんらい・むいちもつ)」という言葉があります。
もともと何ももたずに生まれてきたのだから、何かに執着する必要はない…
という意味だと思っていたら、ニュアンスがちょっとちがっていました。
「本来無一物」の「本来」は「もともと」ではなく、「本質的に」という意味があるそうです。
(くわしくはこちらから)
本質的に「自分のものはない」のだから、執着する必要はないという意味になるでしょうか。
わたしたちが「自分のもの」だと思ってしがみついているものの多くは、
まわりの人たちから拾い集めた「借り物」かもしれません。
今日は禅語の「本来無一物」から「人生の借り物」について考えてみましょう。
Contents
人生はすべて借り物
わたしたちは、何ももたずに生まれてきて、生きていくなかで「わたしのもの」を増やしていきます。
- わたしの服
- わたしのお金
- わたしの友達
モノもお金も人間関係も…どれも「借り物」にすぎません。
なぜなら、死ぬときにもっていけるものは1つもないからです。
この「借り物」は、思考や感情にもあてはまるのではないでしょうか。
- わたしの喜び
- わたしの怒り
- わたしのアイデア
など、日々あらわれては消えていく思考や感情も、本質的にわたしたちのものではありません。
そもそも思考や感情の起点となる…
- 良い・悪い
- 正しい・誤り
- 好き・嫌い
といった、物事を二極化する「尺度」は、後天的に身につけていないでしょうか。
つまり、「自分自身」だと思っている思考や感情も「借り物」の可能性が高いといえます。
親や先生や友達など、まわりの人たちの思考や感情・期待などを拾い集めて
あたかも自分自身のものであるかのようにふるまっているだけかもしれません。
「借り物」は大切にしつつ、執着しない
インドの伝統的な価値観では、人生の「借り物」たちのように
あるようでない、ないようである…そんな不確かな存在を「ミッティヤー」とよびます。
決して「ない」わけではないけれど、
「ある」ともいいがたい…そんな不確かなものを指す言葉です。
たとえば、わたしたちの「体」も「ミッティヤー」です。
たしかに今はここに存在しているけれど、あと何十年かすれば、跡形もなくなるのが体。
だから「体」がよく動くようにケアするのはいいけれど、執着する意味はありません。
だって、「借り物」はいつか返す日が来るのですから。
同様に、日々わきあがってくる思考や感情を重要視しすぎる必要もありません。
だって、それは「借り物」であって、「わたし自身」ではないのですから。
「借り物」だからぞんざいにあつかい、無視しておけばいいというわけではありません。
借り物だからこそ大切にあつかいケアしつつ、こだわりすぎないようにしたいもの。
もし「こうあるべき」「こうでなければならない」など、自分を苦しくさせる思考や感情をもてあましているのならば、元の持ち主に思考を「返す」のも1つの手かもしれません。
人生の「借り物」たちに感謝しつつ、快適につきあっていきたいですね。