シク教徒が成功する理由は?

こんにちは!
気がつけば、12月も半ば。今年もあと少しですね。

先日、シク教徒のお寺「グルドワーラ」をご紹介しましたが…
シク教徒は社会的に成功している人が多いと聞きます。

実際、「シク教徒の乞食はいない」といわれるくらいなのだとか。

なぜ、シク教徒は社会的に成功するのでしょうか?
わたしは「グルドワーラ」を参拝して、ある点に気づきました。

ヒンドゥーの寺院と比較して…

  • 「内と外」の考え方が根本的にちがう
  • 宗教的な「清浄・不浄」と物理的な「清潔・不清潔」が一致している

ということです。

何の話?と思われるでしょうが…今日は、

  • シク教徒のお寺「グルドワーラ」
  • ヒンドゥーのお寺

を比べながら、シク教徒が社会的に成功する理由にせまっていきましょう。

「グルドワーラ」を訪ねたきっかけ

そもそも、シク教徒のお寺「グルドワーラ」を参拝したのは、インド人の友人から勧められたからです。
ヒンドゥーのお寺と比較して「清潔だから」という理由でした。

誤解のないように!ヒンドゥーのお寺が「不衛生」という意味ではありません。

ヒンドゥーのお寺を参拝すると、もれなく「足の裏が真っ黒になる」一方、
「グルドワーラ」ではそのような事態にならない…という意味で「清潔」なのです。

ヒンドゥーのお寺のお祈りの儀式「プージャー」はとても美しく静謐で大好きですが、
お寺を裸足で歩きまわると、足の裏が黒く汚れるのは「なんだかな~」と不満に感じていました。

インド人の友人にその話をしたら、「グルドワーラがいいよ」と教えてくれたのです。

同じインドでも、ヒンドゥー教徒とシク教徒では考え方がちがうようで、
「グルドワーラなら、足が汚れないから!」とのことでした。

ヒンドゥー寺院で足裏が黒くなる理由

ヒンドゥーのお寺を参拝すると、なぜ足裏が真っ黒になるかというと…
お寺の「門の前」で、靴を脱ぐ習慣があるからです。

つまり、お寺の「門」から建物である「お堂」までの「外」を裸足で歩くのです。
お堂のまわりを、ぐるぐると裸足で歩いてまわる習慣もあります。

屋根のない階段を裸足で歩いてお堂に向かう
お堂のまわりを裸足で歩く

いわば「土の上」を歩くようなものですから、当然ながら、足の裏は黒く汚れますし、
その黒くなった足で皆がお堂に入るわけで、建物内の床も汚れていきます。

お祈りの儀式「プージャー」に参加して、いろんな場所を歩いて帰る頃には
ビックリするくらい「足の裏が黒くなっている」のです。

「グルドワーラ」は足が汚れない!

一方、実際に「グルドワーラ」を参拝して、わたしは感動しました。
足の裏は汚れることなく、キレイなままだったからです。

つまり、「グルドワーラ」では…

  • 「門の前」ではなく、「お堂の入り口」で靴を脱ぐ

が徹底されていました。

建物の入り口で靴を脱ぐ(靴は不浄なので、手で揃える習慣はない)
下足番のセーヴァー(奉仕)をする人が靴箱に収納してくれる

「建物の外」では靴をはいて、「建物の中」に入るときに靴を脱ぐ…
という、日本のお寺や神社と同じシステムですね。

さらにいえば、お堂に入る前に手足を洗うので、
建物の中が汚れる可能性はかぎりなく低いでしょう。

お堂に入る前に、手足を洗う

お堂にはお祈りのホールがあり、カーペットが敷きつめられているほか、
天井にはたくさんのファンがまわっていて、蚊を追い払ってくれました。

お祈りのホール

なんと、快適なことでしょうか!

わたしは日本で生まれ育ったので、お寺を参拝して「足が汚れない」のが普通です。
その「普通さ」「快適さ」をインドで享受できることに感動したのでした。

「内と外」の考え方がちがう

この話は、

  • グルドワーラが素晴らしい
  • ヒンドゥーのお寺はよくない

という話ではありません。

ヒンドゥーのお寺とシク教の「グルドワーラ」は、
「内と外」の考え方が根本的にちがう
、と感じました。

ヒンドゥーのお寺では、門を入ればそこから「ご神体」であり「内側」。
だからこそ、門の手前で、不浄だと考えられている靴を脱ぎます。

一方、シク教徒の「グルドワーラ」は、門からお堂の間は
あくまで「外」に該当するのではないか?と思います。

「外」から「内」への境界線が「お堂の入り口」であり、
お堂に入る前に靴を脱ぐ仕組みです。

日本のお寺や神社は「グルドワーラ」の考え方と同じですね。

建物の「外」では、靴を履いたまま参拝する

門からお堂までは「聖域」ではあるけれど「外」です。
建物の「内」か「外」かにより、靴を脱ぐか履くか区分けします。

「清浄・不浄」と「清潔・不清潔」

一方、シク教とヒンドゥー教で共通するのが

  • 「靴は不浄」
  • 「足は不浄」

という考え方です。

だから、「門の前」で靴を脱ぐヒンドゥー教徒も、「お堂の前」で靴を脱ぐシク教徒も、
脱いだ靴を手でふれることはありませんし、その場で足を洗います。

足を洗う

足を洗うのは「不浄さ」を清めるためです。

なお、ヒンドゥー教徒の場合、「足を洗ってから、お堂の周りを歩く」ので、
足を洗った後に、土の上を歩いて足が汚れることになります。

つまり、門の前で足を洗って「不浄」を清めたのに、
その後、物理的に足が「不潔」になるわけで、

宗教的な「清浄・不浄」の考え方と物理的な「清潔・不清潔(足の汚れ)」が
一致していない
といえるでしょうか。

一方、シク教徒は、お堂の入り口で足を洗って不浄さを清めて、
その後、建物の中を歩くので足が物理的に汚れることはありません。

「清浄・不浄」の考え方と物理的な「清潔・不清潔」が一致しています。

合理性が社会的成功を招く?

わたしは、シク教徒が社会的に成功している人が多いと聞いたときに、

ふと、今回ご紹介した「内と外」の考え方や、
宗教的な「浄・不浄」と物理的な「清潔・不清潔」が一致していることが関係するのでは?と感じました。

どちらが良い・悪いではありませんが、シク教徒の考え方の方が合理的に思えるからです。

何か商品やサービスを生み出すときに、市場原理のもとで成功しやすいのは、
合理性や物理的な快適さを重視するシク教徒かもしれない
…と感じたのです。

しかし、シク教徒が社会的に成功している理由は他にあると聞きました。

彼らは、コミュニティで「助けあう」ことが日常的であり、
シク教徒の誰かが経済的に困っていたら、別のシク教徒が助けるそうです。

結果的に「シク教徒の乞食はいない」といわれるほど、
コミュニティがセーフティネットとして機能しているといえます。

シク教徒はインド全体では2%と少数派。
マイノリティだからこそ、仲間どうしの結びつきが強いのかもしれませんね。

というわけで、今日はシク教徒とヒンドゥー教徒の「内と外」の考え方の違いをご紹介しつつ、
シク教徒の経済的成功の秘密を考えました。

もうすぐ年末。
「内」も「外」もキレイに整えたいですね。

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